21.5話; プラトンの評価
通常は哲学科は文学部に所属しているのだから、哲学は文学の一つのジャンルと思うことには一理ある。
文学の一つのジャンルならば、「決まり」があるはずである。 たとえば、俳句ならば、「5-7-5」とか「季語」とかである。
また、推理小説ならば、犯人がいるけど、その犯人が誰かはなかなか明かされないとかである。
プラトンは哲学に「決まり」を導入した。 正確には、プラトンは「決まり」を定めて、西洋哲学を打ち立てた。
この意味で、 Whiteheadの言葉:
以下に「決まり」について説明しよう。
プラトンによる西洋哲学の決まり[西洋哲学の形式]:
哲学は次の形式で述べよ。
$$ \qquad
\overset{世界はこうである}{\underset{序章・方便・フィクション・前振り}{\fbox{世界記述(二元論・観念論)}}}
\quad
\xrightarrow[]{だから} \quad \overset{こう生きなさい}{\underset{本題}{\fbox{倫理・道徳}}}
\tag{1}
$$
である。
プラトンは
とした。 これが有名な「イデア論」である。
(補足): 倫理・道徳などは幾ら議論しても決着が付かないわけで、 プラトンの師ソクラテスは双方が議論に疲れた頃を見計らって「私は『私が何も知らない』ことを知っている」と捨て台詞を言って、ソフィストたちとの議論に勝ったとしてしまった。 プラトンは、倫理とか道徳を突然述べるのではなくて、「世界はこうである」から、「こう生きなさい」と主張するという論法を採用した。 もちろん、 これで実際の議論に勝てるわけではないが、プラトン著の哲学書の中では無敗になる。
世界記述について、幾つかの注意が必要だろう。 以下に書く。
[注意4]のお陰で、西洋哲学は宗教・政治の権威からかろうじて独立できた。 その半面、文学部哲学科なのに、数学とか記号論理を過度に重要と吹聴する体質が生じてしまった。 西洋哲学の本流が「二元論的観念論([注意2,3])」であるはずなのに、それと無関係な数学とか記号論理に拘り過ぎてしまった。
たとえば、カントは,近代において最も大きな影響力を持つ哲学者であるが、,主著は『純粋理性批判(1781)』,『実践理性批判(1788)』,『判断力批判(1790)』であり,それぞれのテーマは「真(本書的には,「真もどき」)」,「善」,「美」である.
この順序はプラトン以来の「哲学の述べ方」に従ったものだろう.すなわち,カントは「プラトンの決めごと」を以下のように忠実に実行した。
$$
\overset{世界はこうである{[純理]}}{\underset{序章・方便・フィクション・前振り・看板・真理もどき}{\fbox{世界記述(二元論・観念論)}}}
\qquad \xrightarrow[]{だから} \overset{こう生きなさい{[実理・判断]}}{\underset{本題}{\fbox{倫理・道徳}}}
\tag{2}
$$
したがって、「純理」はデタラメである。 だからと言って、「価値がない」わけでなくて、かなり重要であるが、それはカントの章で述べる。
プラトンの評価
プラトンは「西洋哲学の形式」の提唱者なのだから、俳句における芭蕉のようなもので、最大級に高い評価されるべきである。
本ブログれは、次のように
$\quad$
理系的には、哲学の世界記述はすべてでまかせのデタラメである。 したがって、デカルト、カント、ウィトゲンシュタインもデタラメであるが、それにもかかわらず、彼らの仕事は画期的である。 これについては、後に述べる。
以上は【理系の西洋哲学史;大学院講義ノート(KOARA 2018)】 からの抜粋である。
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プラトンが「西洋哲学の形式(1)」を発見したわけではないかもしれないが、 この形式での「最初の成功者」という意味である。
芭蕉も、「5-7-5」と「季語」の俳句という形式の最初の成功者である。

文学の一つのジャンルならば、「決まり」があるはずである。 たとえば、俳句ならば、「5-7-5」とか「季語」とかである。
また、推理小説ならば、犯人がいるけど、その犯人が誰かはなかなか明かされないとかである。
プラトンは哲学に「決まり」を導入した。 正確には、プラトンは「決まり」を定めて、西洋哲学を打ち立てた。
この意味で、 Whiteheadの言葉:
- すべての西洋哲学はプラトンの脚注に過ぎない
以下に「決まり」について説明しよう。
プラトンによる西洋哲学の決まり[西洋哲学の形式]:
哲学は次の形式で述べよ。
$$ \qquad
\overset{世界はこうである}{\underset{序章・方便・フィクション・前振り}{\fbox{世界記述(二元論・観念論)}}}
\quad
\xrightarrow[]{だから} \quad \overset{こう生きなさい}{\underset{本題}{\fbox{倫理・道徳}}}
\tag{1}
$$
である。
プラトンは
- 現実の世界とは別にイデア界という世界があって、ここでは「完全な善」が存在する。 現実の世界では、「善」が見えにくくなっているが、イデア界にある「完全な善」を信じて、善行を行いなさい
とした。 これが有名な「イデア論」である。
(補足): 倫理・道徳などは幾ら議論しても決着が付かないわけで、 プラトンの師ソクラテスは双方が議論に疲れた頃を見計らって「私は『私が何も知らない』ことを知っている」と捨て台詞を言って、ソフィストたちとの議論に勝ったとしてしまった。 プラトンは、倫理とか道徳を突然述べるのではなくて、「世界はこうである」から、「こう生きなさい」と主張するという論法を採用した。 もちろん、 これで実際の議論に勝てるわけではないが、プラトン著の哲学書の中では無敗になる。
世界記述について、幾つかの注意が必要だろう。 以下に書く。
- [注意1]:倫理とか道徳が主眼であるから、世界記述は適当(でまかせ)でよい。
- [注意2]:一元論のニュートン力学から、教訓をえるようなことは普通はしない。 従って、世界記述は「物」だけではなくて、人間が反映されている「何か」からなる二元論が好ましい
- [注意3]:「でまかせ」とは言っても、すぐバレるようなことがあってはならない。 従って、おとぎ話のようなバレても言い訳のできるような観念論が好ましい
- [注意4]:[世界記述]と[倫理]は関係ないのに、(1)式で"$\xrightarrow[]{だから}$"と言ってしまったのだから、終始「論理的」を建前として装わなくてはならない
[注意4]のお陰で、西洋哲学は宗教・政治の権威からかろうじて独立できた。 その半面、文学部哲学科なのに、数学とか記号論理を過度に重要と吹聴する体質が生じてしまった。 西洋哲学の本流が「二元論的観念論([注意2,3])」であるはずなのに、それと無関係な数学とか記号論理に拘り過ぎてしまった。
たとえば、カントは,近代において最も大きな影響力を持つ哲学者であるが、,主著は『純粋理性批判(1781)』,『実践理性批判(1788)』,『判断力批判(1790)』であり,それぞれのテーマは「真(本書的には,「真もどき」)」,「善」,「美」である.
この順序はプラトン以来の「哲学の述べ方」に従ったものだろう.すなわち,カントは「プラトンの決めごと」を以下のように忠実に実行した。
$$
\overset{世界はこうである{[純理]}}{\underset{序章・方便・フィクション・前振り・看板・真理もどき}{\fbox{世界記述(二元論・観念論)}}}
\qquad \xrightarrow[]{だから} \overset{こう生きなさい{[実理・判断]}}{\underset{本題}{\fbox{倫理・道徳}}}
\tag{2}
$$
したがって、「純理」はデタラメである。 だからと言って、「価値がない」わけでなくて、かなり重要であるが、それはカントの章で述べる。
プラトンの評価
プラトンは「西洋哲学の形式」の提唱者なのだから、俳句における芭蕉のようなもので、最大級に高い評価されるべきである。
本ブログれは、次のように
- プラトン、デカルト、カント、ウィトゲンシュタインは西洋哲学史上の4大哲学者
$\quad$

理系的には、哲学の世界記述はすべてでまかせのデタラメである。 したがって、デカルト、カント、ウィトゲンシュタインもデタラメであるが、それにもかかわらず、彼らの仕事は画期的である。 これについては、後に述べる。
以上は【理系の西洋哲学史;大学院講義ノート(KOARA 2018)】 からの抜粋である。

プラトンが「西洋哲学の形式(1)」を発見したわけではないかもしれないが、 この形式での「最初の成功者」という意味である。
芭蕉も、「5-7-5」と「季語」の俳句という形式の最初の成功者である。
