*64:ライプニッツ・クラークの往復書簡;時空論 時空とは何か?
第64話
時空(時間、空間)とは何か?
「時空とは何か?」の問い掛けに対して、物理の観点からは健全な議論がされている。 しかし、哲学の観点からは情けないほどの非生産的議論が横行していて、「だから、哲学はダメなんだ」という世論の形成に一役買っているように思う。 哲学からのまともな議論は、「量子言語の時空」だけである。 以下にこれを説明しよう。
もしPDFが見れるならば、[Koara; コペンハーゲン解釈;8.6:節;時空とは何か?---ライプニッツ=クラーク論争 ]の方がまとまっているので、そちらを見ることを勧める。
または、[Koara; 理系の西洋哲学史;9.4節 ライプニッツ=クラークの往復書簡]の方が、初等的かもしれない。
また、htmlでも[ライプニッツ=クラーク論争]を以前に書いた。
もちろん、クラークの後ろにはニュートンがいて、[ライプニッツ=ニュートン論争]と言ってもいい。
上のような書籍形式だと、1ページ目から読んで、9.4節でやっと「ライプニッツ=クラークの往復書簡」が出てくるわけで、ライプニッツ=クラークだけを知りたい向きにはかなりしんどい。
次の論文がコンパクトにまとまっている。
ライプニッツ=クラーク論争を「物理的時空についての論争」とは考えない。「物理的時空」など現在でも明らかになっていないわけで、300年前に「物理的時空」について議論したとしたら、不毛な結果が目に見えている。 天才ライプニッツが不毛な議論を避けないわけがないわけで、多分、ライプニッツは次のように主張したかったのだと思う:
である。 以下にこれを議論する。
ライプニッツ × クラーク論争
哲学者の時空(時間論・空間論)は所詮「言葉遊び」で見るべきものがないと思う。 「なぜ言葉遊びになってしまったのか?」は、 上の論文 ($\sharp$)に書いた。 要するに、時空を論じるには、二つの流儀があって、つまり、
である。 もちろん、後者の立場に立てば、それなり時空を楽しめる。 たとえば、
「永遠の今」とか「今しかない。今でしょう」
などというフレーズに、興味をもってこのフレーズを一生の研究テーマにしようとした哲学者がいてもおかしくない。 言葉遊び・文芸の方がニュートン・アインシュタイン路線よりもマーケットが広いのだから。
しかし、反ニュートン・アインシュタイン路線の中にも、言葉遊びでない時空論がある。
これが、
ライプニッツの時空の関係説
で、これは哲学史上最大級の業績である。 実は、科学史上最大級の業績でもあると著者は思っている。 以下にこれを説明する。
世界記述において,「時間・空間」の概念は基本的である.歴史的には次の有名なライプニッツ=クラーク論争を思い出させる.
時空に関しての,ライプニッツとクラーク(背後にニュートンが控えている)の往復書簡(1715--1716)はライプニッツとニュートンの「時空」に関する考えを知る上にも重要である.
それにしても、
と思うが、・・・
「ライプニッツ × クラーク論争」の要点は,次の通りである
ライプニッツ × クラーク論争
(D):ライプニッツは,「時空の関係説」を唱えた.
理系の普通の感覚からすると,日常的な時空は,相対性理論の時空の近似にすぎないと思うかもしれない.
したがって,
すなわち, ライプニッツの関係説は,(真偽以前に)科学とは無縁なものと思うかもしれない.
しかし、「さすが、ライプニッツ」で、現在でも哲学者が主張しているように、
は正しい。 以下に、これを解く。
本ブログの目的は、下図を主張することであった。
。
ここで、「実在的科学観(世界が先で、言葉が後) vs. 言語的科学観(言葉が先で、世界が後)」の論争の主人公を以下の表にまとめておく:
この表の説明は、本ブログ全体を通して行うことで、今は深入りしない。 しかし、上の「ニュートン vs. ライプニッツ」でもわかるように、 実在的科学観の刷り込み下にいる現代人にとっては、
-------------------------
ライプニッツにとって、「ニュートンとの論争」は最も重要な論争だったはずで、この一番重要な論争において、 自身が提案した「モナド論(という世界記述法)」を拠り所としなかったという事実は注目すべきと思う。 相手(ニュートン、クラーク)がニュートン力学(という世界記述法)を拠り所としているのに、ライプニッツは「モナドロジー」を出せなかった。 すなわち、ライプニッツは、
(B’):モナド論において、時空とは何か? 言い換えると、「時間」をモナド論(という世界記述法)で如何に記述するか? 「空間」をモナド論(という世界記述法)で如何に記述するか?
を示すべきであったが、これができなかった。 これでは、ライプニッツ×クラーク論争は、「ライプニッツのモナドロジーに対する自信のなさ」を露にしたと評されても仕方が無いだろう。 と言うことならば、ニュートンが前面に出てくるわけがない。
時空(時間、空間)とは何か?
「時空とは何か?」の問い掛けに対して、物理の観点からは健全な議論がされている。 しかし、哲学の観点からは情けないほどの非生産的議論が横行していて、「だから、哲学はダメなんだ」という世論の形成に一役買っているように思う。 哲学からのまともな議論は、「量子言語の時空」だけである。 以下にこれを説明しよう。
もしPDFが見れるならば、[Koara; コペンハーゲン解釈;8.6:節;時空とは何か?---ライプニッツ=クラーク論争 ]の方がまとまっているので、そちらを見ることを勧める。
または、[Koara; 理系の西洋哲学史;9.4節 ライプニッツ=クラークの往復書簡]の方が、初等的かもしれない。
また、htmlでも[ライプニッツ=クラーク論争]を以前に書いた。
もちろん、クラークの後ろにはニュートンがいて、[ライプニッツ=ニュートン論争]と言ってもいい。
上のような書籍形式だと、1ページ目から読んで、9.4節でやっと「ライプニッツ=クラークの往復書簡」が出てくるわけで、ライプニッツ=クラークだけを知りたい向きにはかなりしんどい。
次の論文がコンパクトにまとまっている。
($\sharp$) | S. Ishikawa: "Leibniz-Clarke Correspondence, Brain in a Vat, Five-Minute Hypothesis, McTaggart’s Paradox, etc. Are Clarified in Quantum Language"Open Journal of philosophy, Vo.8 No.5 2018, 466-480 (PDF download free), |
ライプニッツ=クラーク論争を「物理的時空についての論争」とは考えない。「物理的時空」など現在でも明らかになっていないわけで、300年前に「物理的時空」について議論したとしたら、不毛な結果が目に見えている。 天才ライプニッツが不毛な議論を避けないわけがないわけで、多分、ライプニッツは次のように主張したかったのだと思う:
- 「物理的時空」に関しては、ニュートンさんに譲りますよ。 ただし、時空は「物理的時空」だけではありませんよ。
である。 以下にこれを議論する。
ライプニッツ × クラーク論争
哲学者の時空(時間論・空間論)は所詮「言葉遊び」で見るべきものがないと思う。 「なぜ言葉遊びになってしまったのか?」は、 上の論文 ($\sharp$)に書いた。 要するに、時空を論じるには、二つの流儀があって、つまり、
- ニュートン・アインシュタインの客観的時空論
- 「私」中心の主観的な時空論
である。 もちろん、後者の立場に立てば、それなり時空を楽しめる。 たとえば、
などというフレーズに、興味をもってこのフレーズを一生の研究テーマにしようとした哲学者がいてもおかしくない。 言葉遊び・文芸の方がニュートン・アインシュタイン路線よりもマーケットが広いのだから。
しかし、反ニュートン・アインシュタイン路線の中にも、言葉遊びでない時空論がある。
これが、
ライプニッツの時空の関係説
で、これは哲学史上最大級の業績である。 実は、科学史上最大級の業績でもあると著者は思っている。 以下にこれを説明する。
まず、常識人ならば、
(A): なぜ、「時空とは、何か?」が哲学のテーマなのか?
と問うと思う。 理系だったら、
すなわち、
(B):言語的科学観において「時空とは何か?」である。 言い換えると、「時間」を量子言語で如何に記述するか? 「空間」を量子言語で如何に記述するか?
である。 以下にこれを議論する。
(A): なぜ、「時空とは、何か?」が哲学のテーマなのか?
と問うと思う。 理系だったら、
- そんな言葉遊びをするなよ! 相対性理論を勉強しろよ。
すなわち、
(B):言語的科学観において「時空とは何か?」である。 言い換えると、「時間」を量子言語で如何に記述するか? 「空間」を量子言語で如何に記述するか?
である。 以下にこれを議論する。
世界記述において,「時間・空間」の概念は基本的である.歴史的には次の有名なライプニッツ=クラーク論争を思い出させる.
時空に関しての,ライプニッツとクラーク(背後にニュートンが控えている)の往復書簡(1715--1716)はライプニッツとニュートンの「時空」に関する考えを知る上にも重要である.
それにしても、
- 相手がライプニッツならば、ニュートンが前面に出てくるべきで、ニュートンはライプニッツに対して失礼ではないか
と思うが、・・・
「ライプニッツ × クラーク論争」の要点は,次の通りである
ライプニッツ × クラーク論争
(C):ニュートンは「時空の絶対説」を提唱した.
- ニュートンは時空を「物」の入れ物であり,実存する絶対的な存在という地位を与えた.「物」がなくなっても,入れ物,すなわち空間と時間は存在する. したがって、
- 時空は根源的存在である
とした。
(D):ライプニッツは,「時空の関係説」を唱えた.
- 空間とは,「物」の位置という性質・属性(=状態)を表現するものである。 時間とは,「物」が次々と移り変わる継起の順序である。 したがって、時空とは、単なるパラメータであって、
- 時空は根源的存在でない
とした
理系の普通の感覚からすると,日常的な時空は,相対性理論の時空の近似にすぎないと思うかもしれない.
したがって,
- ニュートンの言うことの意味はわかる気がするが,ライプニッツの関係説は,「金言的定義」で,「そういう文学的な言い方」もあると納得する程度で,「だから何なの?」と問い返すに違いない.
すなわち, ライプニッツの関係説は,(真偽以前に)科学とは無縁なものと思うかもしれない.
しかし、「さすが、ライプニッツ」で、現在でも哲学者が主張しているように、
- ライプニッツ=クラーク論争は300年来の未解決問題
は正しい。 以下に、これを解く。
ライプニッツ=クラーク論争の解決
ライプニッツ=クラーク論争は、量子言語の提案によって、次の「世界記述の分類」が形成されたことによって解決される。
以下の議論(①と②)は、第17(下)話「存在論(パルメニデス)」と同じである。
①:実在的記述法(ニュートンの絶対説)
ニュートンの運動方程式
したがって、ニュートン力学という実在的世界記述法の根源的キーワードは、質量、時空、 加速度、力等である。
そうだとしたら、
(E):時間・空間は存在する
である。
----------------------------------------------
②:言語的記述法(ライプニッツの関係説):測定理論
時空に関しては、上の青枠 は、重要である。
結論的には、
となる。
そうだとしたら、ライプニッツの言う通りとなる(詳しくは、量子言語: ライプニッツ=クラーク論争を見よ)。 すなわち、
(G)::時空は、パラメータである。
上記のことの詳細は、論文としては、次の3節と4節に書いた。 難なく読めると思うので、目を通してもらいたい。:
ライプニッツ=クラーク論争は、量子言語の提案によって、次の「世界記述の分類」が形成されたことによって解決される。
{ | ①:実在的世界記述法 ②:言語的世界記述法 | [物理学(ニュートンの絶対説)] [量子言語(ライプニッツの関係説)] |
以下の議論(①と②)は、第17(下)話「存在論(パルメニデス)」と同じである。
- ----------------------------------------------
①:実在的記述法(ニュートンの絶対説)
ニュートンの運動方程式
- 質量 × 加速度 = 力
そうだとしたら、
(E):時間・空間は存在する
である。
----------------------------------------------
②:言語的記述法(ライプニッツの関係説):測定理論
量子言語
(F)測定理論は、二つの概念:
から成り立ち、更に詳しく言うと、
である。
(F)測定理論は、二つの概念:
- 測定と因果関係
から成り立ち、更に詳しく言うと、
- 測定者、状態、測定対象、観測量(=測定器)、測定値、確率、順序関係、因果作用素
である。
時空に関しては、上の青枠 は、重要である。
結論的には、
- 状態をパラメータと見てその特殊な場合が空間
- 因果作用素のパラメータの特殊な場合が時間
となる。
そうだとしたら、ライプニッツの言う通りとなる(詳しくは、量子言語: ライプニッツ=クラーク論争を見よ)。 すなわち、
(G)::時空は、パラメータである。
上記のことの詳細は、論文としては、次の3節と4節に書いた。 難なく読めると思うので、目を通してもらいたい。:
$\bullet$ | S. Ishikawa: "Leibniz-Clarke Correspondence, Brain in a Vat, Five-Minute Hypothesis, McTaggart’s Paradox, etc. Are Clarified in Quantum Language"Open Journal of philosophy, Vo.8 No.5 2018, 466-480 (PDF download free), |
本ブログの目的は、下図を主張することであった。
。

ここで、「実在的科学観(世界が先で、言葉が後) vs. 言語的科学観(言葉が先で、世界が後)」の論争の主人公を以下の表にまとめておく:
- (E)
この表の説明は、本ブログ全体を通して行うことで、今は深入りしない。 しかし、上の「ニュートン vs. ライプニッツ」でもわかるように、 実在的科学観の刷り込み下にいる現代人にとっては、
- 言語的科学観を素直に受け入れることは意外と難しい
(H):ライプニッツの卓見には感心するが、今から思えば「ライプニッツ×クラーク論争」は論争にならなかった
ニュートンに張り合って、「時空論」を展開するとは、
であるが、ライプニッツは「言語(=言語的世界記述法)」の下で議論しなかったので、主張がボケてしまった。 すなわち、
(I1): ニュートンは、「ニュートン力学」という言語体系を提案して、時空という言葉(=概念)の使い方を指定した
(I2): ライプニッツは、 時空についてのライプニッツの気分(D)を述べたにすぎない
からである。
すなわち、ライプニッツは、世界記述の原則(第16話「ゼノンのパラドックス」参照)、つまり、
を実践すべきであった。 今から思えば、
かもしれないが、 ライプニッツはこのチャンスを逃した。 天才が現れなくても、「長い時間」が解決するもので、一応の形:
はフィッシャーによって得られた(第6話「科学と統計学」).
一方、ニュートンは、「実在的世界記述法(ニュートン力学)」を出発点としているので、結論(E)は明確で、
という雰囲気が定着してしまって、それは現在まで続いている。
今から思えば、ライプニッツは「〇〇世界記述法」を提案できなかったわけで、日常言語内の議論であった。
と言える。
しかし、上述したように、
ニュートンに張り合って、「時空論」を展開するとは、
- 「さすが。 ライプニッツ」
であるが、ライプニッツは「言語(=言語的世界記述法)」の下で議論しなかったので、主張がボケてしまった。 すなわち、
(I1): ニュートンは、「ニュートン力学」という言語体系を提案して、時空という言葉(=概念)の使い方を指定した
(I2): ライプニッツは、 時空についてのライプニッツの気分(D)を述べたにすぎない
からである。
すなわち、ライプニッツは、世界記述の原則(第16話「ゼノンのパラドックス」参照)、つまり、
- 世界記述法(or, 言語体系)から始めよ
を実践すべきであった。 今から思えば、
- 「計算可能な形式を持つ哲学」を提唱できる資質を有していた哲学者は、ライプニッツだけだった
かもしれないが、 ライプニッツはこのチャンスを逃した。 天才が現れなくても、「長い時間」が解決するもので、一応の形:
- 世界記述法の分類
$ \begin{cases} \color{blue}{①:実在的世界記述法 ・・・物理学(ニュートン)} \\ \color{red}{②:言語的世界記述法 ・・・統計学(フィッシャー)} \end{cases} $
はフィッシャーによって得られた(第6話「科学と統計学」).
一方、ニュートンは、「実在的世界記述法(ニュートン力学)」を出発点としているので、結論(E)は明確で、
- 「論争は、ニュートンに分がある」
という雰囲気が定着してしまって、それは現在まで続いている。
今から思えば、ライプニッツは「〇〇世界記述法」を提案できなかったわけで、日常言語内の議論であった。
- 「ニュートン力学 × 日常言語」では論争にならなかった
と言える。
しかし、上述したように、
- 「ニュートン力学 × 量子言語」なら論争になる。 すなわち、「(E)と(G)の両立(棲み分け)」を主張できる
-------------------------
ライプニッツにとって、「ニュートンとの論争」は最も重要な論争だったはずで、この一番重要な論争において、 自身が提案した「モナド論(という世界記述法)」を拠り所としなかったという事実は注目すべきと思う。 相手(ニュートン、クラーク)がニュートン力学(という世界記述法)を拠り所としているのに、ライプニッツは「モナドロジー」を出せなかった。 すなわち、ライプニッツは、
(B’):モナド論において、時空とは何か? 言い換えると、「時間」をモナド論(という世界記述法)で如何に記述するか? 「空間」をモナド論(という世界記述法)で如何に記述するか?
を示すべきであったが、これができなかった。 これでは、ライプニッツ×クラーク論争は、「ライプニッツのモナドロジーに対する自信のなさ」を露にしたと評されても仕方が無いだろう。 と言うことならば、ニュートンが前面に出てくるわけがない。
